推しのメイドさんが卒業した日のこと。衣装を忘れた彼女と、追いかけてくれたスタッフさん

メイドカフェについて

メイドカフェに長く通っていると、避けて通れない日がやってくる。

推しのメイドさんの卒業だ。

メイドカフェでは、メイドさんがお店を辞めることを「卒業」と呼ぶ。
14年も通っていると、この卒業を何度も経験することになる。

今回は、ある推しの卒業の日のことを書いてみたい。
しんみりした話……かと思いきや、当日はちょっとした事件もあった。そんな一日の話だ。

「ついに来たか」という感覚

その子には、2年ほど通っていた。

週2回ほどの出勤で、私は出勤日にはほぼ毎回会いに行っていた。
週に2回会う。それが、いつの間にか私の日常の一部になっていた。

卒業を知ったときの最初の感想は、正直に言うと「ついに来たか」だった。

何度も推しの卒業を経験してきたせいか、昔のように大きなショックが一気に押し寄せる、という感じではなかった。
「またこの時が来たな」という、少し慣れてしまった感覚もあった。

我ながら、通いすぎて涙腺が鍛えられてしまったのかもしれない。

寂しさは、後からやってくる

面白いもので、卒業前はそこまで寂しくなかった。

理由は単純で、まだ普通に会えていたからだ。
「卒業する」と頭ではわかっていても、目の前にいつも通りのその子がいると、実感が湧かない。

寂しさが出てきたのは、むしろ卒業した後だった。

週2回会うのが当たり前だった日常。
その当たり前がなくなって初めて、「ああ、もう会えないんだな」とじわじわ効いてくる。
喪失感というのは、失った瞬間よりも、失った後の日常の隙間に現れるものらしい。

完全な別れ、ではなかった

今回の卒業が少し特殊だったのは、その子が卒業後も個人で活動を続けることになっていたからだ。

だから「もう二度と会えない」という別れではなかった。
メイドカフェで会うという日常が終わり、関係が別の形へ変わる。そういう卒業だった。

このあたりは、大げさに「今生の別れ」みたいに書くと嘘になる。
実際、今も元気に活動している。

失ったのは「その人」ではなく、「お店で会う」という日常の形だった。
そう捉えるのが、一番しっくりくる。

卒業当日、まさかの事件

さて、ここからが本題だ。

その子は卒業当日のために、特別な衣装を用意していた。
卒業の日にしか着ない、特別な一着。

……を、当日忘れてきた。

さすがに笑った。
本人とも「やっちまったな」という空気で話した。

私は冗談で、こんなことを言った。

「これ、逆に伝説を残せるじゃん」
「卒業の日に衣装忘れた人なんて聞いたことないよ」
「語り継がれるやつだよ、これ」

しんみりした言葉をかけるより、最後まで普段通りバカ話をしていた。
それがその子との関係らしくて、今でも一番印象に残っている。

卒業の日だからといって、急にきれいな言葉を交わしたわけじゃない。
ハプニングも含めて、その子らしい卒業の日だった。

「オーラス」を狙うファンたち

メイドカフェには「オーラス」という言葉がある。

卒業の日に、オープンからラストまで、できる限り長くお店で見届けることだ。

ただ、メイドカフェは基本的に1時間ごとに料金が発生する。
長時間いる場合は、いったん退店してまた入り直す、という形になることが多い。

だから卒業日のラスト付近は、常連たちが頭の中で計算を始める。

「今入店したら、最後の時間まで保つか」
「あと何周できるか」
「この混雑だと、次に入れるのはいつだ」

推しを見送りたい一心で、みんな真剣に回転数を計算している。
傍から見たら不思議な光景かもしれない。

諦めて店を出た、そのとき

その日、私は最後の入店の計算をミスった。

もう最後の一周には入れない。
そう判断して、「今日はここまでだな」と諦めて、お店を出た。

実際に、店の外まで出た。

すると、スタッフさんが追いかけてきてくれた。
このお店では、スタッフさんのことを独特の呼び方で呼ぶのだが、その人が私を追いかけて、こう言ってくれた。

「今なら入れますよ。どうですか?」

順番待ちに登録していた人が全員は来なかったのか、偶然、最後の枠に少し空きができたらしい。

「え、入れるんですか?」

驚きながら、私はもう一度お店に入ることができた。
推しの最後の時間に、ぎりぎり間に合った。

一番うれしかったのは、追いかけてくれたこと

正直に言うと、この日一番うれしかったのは「最後の一周に入れたこと」そのものではない。

帰ろうとしていた私を、スタッフさんがわざわざ追いかけて、声をかけてくれたことだ。

これはメニューに書いてあるサービスではない。
長く通っている常連なら誰でも必ずしてもらえる、という類のものでもない。

ただ、長く同じお店に通っていると、マニュアルには載っていない、人と人との間から生まれる小さな心遣いを受けることがある。
この日の出来事は、私にとってまさにそれだった。

長く通ってきたからこそ生まれたのかもしれない、ささやかな特別感。
その温かさが、卒業の日の記憶をより深いものにしてくれた。

いなくなっても、私は通う

推しが卒業した後も、私はそのお店に通い続けている。

他のメイドさんからは、冗談でこう言われた。

「あれ、いなくなっても来るんだ?」
「今日は何しに来たの?」

まあ、言われると思っていた。
メイドカフェではよくあるいじりだし、こっちも慣れたものだ。

でも、この冗談で気づかされたこともある。

私がそのお店に通っていた理由は、推しだけじゃなかった。
お店そのもの、他のメイドさん、スタッフさん、そこで積み重ねてきた時間。
その全部との関係が、ちゃんと残っていた。

だから推しが卒業しても、私の「ご帰宅」は続いている。

最後に

推しの卒業は、必ずしも「すべてを失う出来事」ではない。

卒業前には実感が湧かず、終わってから少しずつ寂しさが出てくる。
卒業の日には、きれいな別れの言葉よりも、衣装を忘れるようなハプニングのほうが記憶に残ったりする。
そして、長く通う中で生まれた人間関係が、ふとした瞬間に温かさをくれる。

メイドカフェに通う価値は、推しに会うことだけじゃない。
お店や人との時間の積み重ねそのものに、ちゃんと価値がある。

卒業は終わりじゃなくて、日常の形が変わるだけ。
14年通ってきて、今はそう思っている。

衣装を忘れたあの子は、今も元気にやっているらしい。
それで十分だ。

沼の底から、愛を込めて。

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